祖父の軍隊手牒

母が亡くなった当日から、納棺を経て通夜当日に寺に移動させるまで、6日
間という時間がありました。
その間に、仏壇やその周囲を見ておりましたら、祖父の遺品である<軍隊手
牒>が、帝國在郷軍人會の徽章(3種)と共に見つかりました。
全頁を写真に撮って、現物は丁寧に箱に収めて実家に置いてきました。

手牒はベージュの布製カバーに綴じ込まれていて、携帯を義務付けられて丁
寧に扱う物だったせいか、約30枚(60ページ程)の中身の紙部分も、
75年以上前の物とは思えないくらいしっかりしています。 表紙の一部に
赤茶色の染みが付いていたりして、その意味を想像すると感慨深いものがあ
ります。

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祖父には出征の経験があった事と、<大陸で馬に乗っていた><マラリヤに
罹って現地の野戦病院に入院し、その後帰国した>話は、以前母に聞いては
いましたが、兵役に就いていた当時の事は何も聞かないまま、祖父は私が高
校生の時に亡くなってしまったので、今回実に興味深く、その手牒をめくる
事となりました。

今の所、ザッと目を通しただけなのですが、この手牒が当時どのように扱わ
れていたのかが、4種の勅諭(ちょくゆ)、讀法(とくほう)、誓文(せい
もん)、應召及出征時ノ心得、軍隊手牒ニ係ル心得と読み進めていくうちに
ジワジワと実感として伝わってきて、いつの間にか背筋が伸びておりました。

祖父は、母が言っていた通信を担当する部署にいた兵ではなく(>兵装でヘ
ッドホンのようなものを装着していた写真があったので、誤解していたのか
もしれません)、騎兵だった事を知りました。

第一師団 騎兵 第十五連隊所属。 最終階級は、曹長でした。

機関銃の扱いに優れ、3度の褒賞の記録があり、他に<機関銃夜間射撃用豆
電燈設備考案ノタメ>褒賞一度。 更に、その内容はわかりませんが<善行
證書>を一度、受けていました。 罰科の記載は無し。

驚いたのは、<出戰務>の記録でした。 小さな小さな米粒のような、祖父
自身の几帳面なペン文字で、<昭和十二年十二月二十四日上海上陸>の記述。
そして次が<自昭和十二年十二月二十五日至昭和十三年一月十七日上海付近
ノ警備>とありました。

(えっ! ちょ、ちょっと待って〜!)と驚きつつ、出戰務を読み進めてい
くと、第二中隊への編入後、数度の上海付近警備を経て、<六月三十日ヨリ
九月十四日揚子江遡江作戰参加>とありまして……。

なんと、祖父はどうやらあの南京陥落の頃に中国大陸に居て、日本軍の騎兵
として、マラリアに感染して入退院を経ながらも、昭和14年の11月頃ま
でに合計10度程、付近各地の攻略戰や掃討戦に参加していたようなのです。
出戰務には他に徳安、修水(?)、南昌、永修、瑞撫他各地名の記載があり
ます。 読めない文字もあるので、そこは追々。

もう、びっくりです。
今の今まで、自分とは縁が無い遠い遠い昔の話でしかなかった南京陥落当時、
いや<戦時中>自体に後ろ襟を掴まれて、目の前にババーンッと突き出され
た事実に向き合わされた感じ。

ちなみに、昭和12年に限らず12月24日といえばクリスマスイブですね。
当時の東京朝日新聞によると、その日の日付で<平和立帰る南京。皇軍兵士
避難民に菓子を分配>というタイトルの記事が報じられています。

同じ日付でノース・チャイナ・デイリーニュースも<南京で贈り物を配る日
本軍>のタイトルで、群衆に混じって物を配る日本軍兵士の写真付きで報じ
ています。 現地の子供達の表情が嬉しそうで、こちらも和める写真です。

中国が主張する南京大虐殺云々の話とは、だいぶ様相が異なるようですね。
詳しくは、『南京事件「証拠写真」を検証する』(東中野修道・小林進・福
永慎次郎共著/草思社/16〜17頁)をご覧下さい。
一説によると、日本軍が南京入りした後、避難していた現地の方々が戻って
きて、20万だった人口が25万ほどになったという話もあります。

祖父本人からは全く話が聞けないままでしたが、こうして極一部だけでも知
る事が出来て、また手牒や徽章を保管する事も出来て、本当に良かったと思
いました。

母の事が無かったら、おそらくまだ手牒の事も知らないままだったと思うの
で、母にも感謝です。

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